マチフル -machifull-

新潟や日本や東南アジアの街ネタブログ。見たり聞いたり読んだり買ったりの感想メモも。目指すは陸マイラー。

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【追悼/長岡空襲の語り部・原田新司さん】「アメリカを恨む気持ちはない」

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自分がもし同じ経験をしたとして、同じことが言えるか。正直、自信がありません。
原田さんの言葉の重みを改めて感じています。

太平洋戦争の長岡空襲で両親と祖母、妹の家族7人全員を亡くし、戦後、語り部として戦争の悲惨さを伝えてきた原田新司さんが、6日亡くなられました。
たった一人、戦災孤児として生き抜いてきた原田さんが、2年前の講演で話した内容を振り返ります。

◇ ◇ ◇

太平洋戦争も終盤に入った1945年、米軍は日本の都市を次々無差別爆撃しました。
長岡市は8月1日に空襲を受け、中心部は約8割が焼失、1470人余りが死亡しました。

原田さんは空襲の夜、学校の消火活動へ向かいましたが、長岡市中心部は火の海と化しており、翌朝まで戻ることができなかったそうです。
翌朝自宅に戻ると、周辺は一面の焼け野原になっていました。そして焼けた自宅で目に飛び込んできたのは、真っ黒になって横たわる家族の遺体でした。

当初は軍需工場などを狙って行われていた米軍による空襲が、「戦意を失わせる」との大義名分のもとに一般市民を狙うように方針転換していった、と原田さん。
木造の日本家屋を効果的に燃やし尽くすために開発が進められたのが、焼夷弾です。

「人を人とも思わなくなった」
「命を命とも思わなくなった」
原田さんは、詩人・宮尾節子さんの『明日戦争がはじまる』という詩を紹介しました。
B29に乗り焼夷弾をばらまいた米兵は、眼下の街に住む日本人をもはや人とは思っていなかったのでしょうか。
「鬼畜米英」と言ってしまいたくもなります。

でも原田さんは言います。
「アメリカを恨む気持ちはありません。むしろ(戦時体制から)解放してくれました」

命を命とも思わなくなっていたのは、アメリカよりもむしろ戦時体制の日本の方だったのかもしれません。

たった一人、戦災孤児となった原田さん。
様々な苦労をされてきたことと思います。揺さぶられるような思いもあったことでしょう。
それでもこのような心境に至ったのは、素直にすごいと思います。
だからこそ日本は70年もの間、平和でいられたのかもしれません。

◇ ◇ ◇

原田さんは自分の経験を伝え、後世に残す活動を続けてきました。
歴史に学ぶことは大事です。
一人ひとりの個人よりも、組織や国が大切…などと言い出したら。
その先はきっと危ないです。

太平洋戦争が終わり70年以上が過ぎた今も、シリアやイエメン、トルコのクルド人地域では、空爆が日々行われ、子どもなど多くの一般人が亡くなっています。
原田さんの存命中に戦争と空爆のない世界が実現できなかったことは残念でなりません。

【参考】27年8月 平和への想い、次世代へつなぐ
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/shisei/cate02/tayori/file/2708/t2708/2708newpage4.htm